Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
目を覚ますと、そこは見慣れない白い天井だった。どこかの病院だろうか。いや、違う。漂う空気は清浄だが、どこか冷たく、生気が感じられない。
「…ここは?」僕は呟いた。身体を起こそうとするが、力がうまく入らない。全身が鉛のように重い。
その時、声が聞こえた。「ここは死後の世界よ、ショウさん」
振り返ると、そこに立っていたのは白衣を着た若い女性だった。整った顔立ちだが、どこか憂いを帯びている。
僕は混乱した。昨日のことさえ思い出せない。最後に何をしたのか、どんな場所にいたのか、全く記憶がないのだ。
「あなたの名前はショウ。年齢は…」女性は手元のカルテのようなものを見た。「…32歳。死因は…今はまだ思い出せない方がいいかもしれません」
「死因…? 教えてくれ。僕は一体、何があったんだ?」僕は必死に訴えた。しかし、女性は首を横に振った。
「今は混乱しているでしょうから。まずはこの場所、『療養所』で落ち着いてください。ここでは、あなたのような死後に迷いや苦しみを抱えた人々が、受容のためのセラピーを受けています」
僕は連れられるままに『療養所』と呼ばれる場所に向かった。そこは、まるで現代の病院と変わらないような施設だった。個室が並び、食堂や談話室もある。しかし、そこにいる人々は皆、どこか生気がなく、顔色が悪いように見えた。
療養所での生活は、退屈だった。朝起きて、決められた時間に食事をし、セラピーを受ける。セラピーといっても、カウンセラーとの面談が中心で、過去の出来事や感情を話すだけだ。
僕はカウンセラーに何も話さなかった。いや、話せなかった。自分の過去を思い出すことが怖かった。きっと、辛いことばかりだったのだろう。
気がつけば、療養所に来てから8年が経っていた。8年間、僕はほとんど個室から出なかった。頭痛や腹痛、軽い下痢などを訴え、セラピーも最低限しか受けなかった。理由は簡単だ。僕は死後の世界でも幸せになれなかったからだ。
生きている時から抱えていた孤独感は、死んでも消えることはなかった。むしろ、死んでしまったことで、その孤独感はさらに増幅されたように感じた。僕は完全に心を閉ざし、自分の殻に閉じこもってしまったのだ。
(死んだら楽になると思っていたのに…結局、どこに行っても苦しいだけじゃないか…)
そんなある日、僕は個室の扉をノックする音が聞こえた。
「成香(なるか)です。少しお話してもよろしいですか?」
成香…聞き覚えのない名前だ。僕は訝しみながらも、扉を開けた。
そこに立っていたのは、僕より少し年上の女性だった。長い黒髪を後ろで束ね、優しい眼差しをしている。
「療養所でボランティアをしている成香です。ショウさんのことは、前から気になっていたんです」彼女はそう言って、微笑んだ。
僕は戸惑った。療養所でボランティアをしている人間がいること自体、知らなかった。そして、なぜ彼女が僕に興味を持ったのかも、わからなかった。
「だって、ずっと個室に閉じこもっているのでしょう? それじゃあ、寂しいと思って」
僕は何も言えなかった。彼女の言葉は、僕の心の奥底に響いた。寂しい…そう、僕は確かに、ずっと寂しかったのだ。
「少しだけ、お話しませんか? 私は、あなたの話を聞きたいんです」
僕は迷った。しかし、彼女の優しい眼差しに惹かれ、僕は頷いた。「…少しだけなら」
成香は部屋に入り、僕の向かい側の椅子に座った。そして、静かに口を開いた。「何か、辛いことがあったんですね」
僕は再び何も言えなかった。しかし、彼女の言葉は、僕の心の壁を少しずつ溶かしていくようだった。
その日から、成香は毎日、僕の部屋を訪れるようになった。彼女は僕に無理に話させようとはせず、ただ、僕の傍にいて、自分の話を聞かせてくれた。
彼女の話は、他愛のない日常のことばかりだった。しかし、彼女の言葉には、優しさと温かさが溢れていて、僕は少しずつ癒されていくのを感じた。
ある日、僕は意を決して、自分の過去について話し始めた。それは、辛く、悲しい記憶だった。
「僕は…死んだんです」僕は言った。「死因は…自殺です」
「僕は…長年、妻から虐待を受けていました。身体的な暴力だけでなく、精神的な虐待も酷くて…」
僕は震える声で、語り始めた。妻からの言葉の暴力、無視、人格否定…。それは、想像を絶する苦しみだった。
「耐えられなくなった僕は…息子を残したまま、焼身自殺してしまったんです…」僕は涙ながらに言った。
成香は僕の言葉を聞き終えると、そっと僕の手を握った。「辛かったですね…」
僕は泣き崩れた。8年間、誰にも言えなかった心の痛みが、一気に溢れ出したのだ。
成香は何も言わずに、ただ僕の背中をさすってくれた。その温もりに、僕は救われたような気がした。
それからしばらくして、僕は少しずつ回復していった。成香との会話を通して、僕は自分の過去と向き合うことができたのだ。
「ショウさん、あなたはもう大丈夫ですよ」ある日、成香は僕に言った。「あなたはもう、自分の死を受容したんです」
僕は頷いた。確かに、僕はもう過去に囚われていない。自分の死を受け入れ、新たな一歩を踏み出せるようになったのだ。
僕は療養所の個室から出るようになった。食堂で他の人と食事をしたり、談話室で会話をしたりするようになった。以前は考えられなかったことだ。
そして、ある日、僕は成香に言った。「ありがとう。成香がいなかったら、僕はきっと、ずっとこのままだった」
成香は微笑んだ。「いいえ、私がしたことは、ただあなたの傍にいたことだけです。あなたが自分の力で立ち直ったんです」
僕は成香と二人で、療養所の庭を散歩した。空は青く、風は心地よい。まるで、新しい人生が始まったかのようだった。
ある日、僕は療養所のカウンセラーから呼び出された。
「ショウさん、あなたの息子さんが…」カウンセラーは言いづらそうに口を開いた。「…現実世界で、あなたの後を追おうとしているようです」
「息子さんは、あなたがいなくなったことで、深い悲しみに暮れているようです。そして、あなたと同じように…自殺を考えているようです」
僕は血の気が引くのを感じた。自分が犯した過ちが、息子を苦しめている。そんなこと、絶対に許されない。
僕は急いで現実世界に意識を飛ばした。息子は、屋上に立っていた。手には、何か握られている。
「やめろ! ユウタ! やめるんだ!」僕は必死に叫んだ。しかし、息子には聞こえない。
「ユウタ! 死ぬな! 生きてくれ! 父さんは…父さんは間違っていたんだ! 君を置いて逝って、本当にごめん!」
僕の言葉は、届かない。息子は、決意したように目を閉じた。そして…。
その瞬間、僕は全力で念じた。どうか、息子の心に、僕の想いが届いてくれ…。
彼は目を開け、涙を流しながら、叫んだ。「…お父さん…?」
僕は再び叫んだ。「ユウタ! 死ぬな! 生きて、生きて、生きてくれ!」
息子はしばらく泣き続けた。そして、ゆっくりと、屋上から降り始めた。
その後、息子はカウンセリングを受け、徐々に立ち直っていった。そして、いつか僕に会いに来てくれることを信じて、僕は死後の世界で生きていく。