八年越しの花火

Drama 21 to 35 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

薄暗い部屋の隅、僕は死後の世界にあるはずの『療養所』のベッドに丸まっていた。正確には、丸まってもいない。ただ、布団の中で硬直しているだけだ。死んだはずなのに、生きている時と何も変わらない。否、変わってしまった。
「ショウ、ご飯だよ」
無機質な声がドアの向こうから聞こえる。返事をする気力もない。もう8年も、この部屋からほとんど出ていない。いや、8年も経ったのか…時間の感覚すら麻痺してきた。
(どうして、僕はこんな所にいるんだ…?)
生前は、名前はショウ。享年32歳。直接的な死因は、焼身自殺だ。死後、魂は転生することもなく、この奇妙な療養所に流れ着いた。現世とほとんど変わらない、だがどこか歪んだ景色の中で、僕は永遠にも似た時間を過ごしている。
生きていた頃から、僕は孤独だった。周りの人間とうまく馴染めず、いつもどこか他人事のように世界を見ていた。唯一の救いは、妻と息子の存在だった。
だが、それも長くは続かなかった。結婚生活は、次第に歪んでいった。妻の言葉は鋭利な刃物となり、僕の心を切り刻んだ。そして、ある日、僕は耐えきれなくなった。灯油を浴び、火をつけた。
(息子…ゴメンな…)
激しい後悔が、今も僕の胸を締め付ける。せめて、死後くらいは楽になりたかった。苦しみから解放されたかった。でも、それは叶わなかった。ここは、生きている時以上に苦しい場所だ。だって、にたくてもねないんだから。
ドアがゆっくりと開く。見慣れた顔が、僕を覗き込む。
「ショウ、少しは外に出てみたら? ずっと籠りっぱなしじゃ、身体も心も腐っちゃうよ」
それは、療養所のスタッフ、成香だった。彼女はいつも優しく、僕のことを気にかけてくれる。でも、彼女の優しさが、今の僕には痛い。
「…別に、いいよ。僕は…」
「ダメだよ。ほら、少しだけでも。屋上庭園に、綺麗な花が咲いているんだって。一緒に行こう?」
僕は黙り込む。本当は、少しだけ外の空気を吸いたい気持ちもあった。でも、外に出るのが怖い。何か恐ろしいものに出会ってしまう気がする。
成香は、僕の返事を待たずに、強引に僕の腕を引いた。「ほら、行くよ!」
抗う気力もなく、僕は成香に連れられて、部屋を出た。久しぶりに浴びる光は、目に痛いほど眩しかった。
廊下を歩いていると、他の患者たちとすれ違う。みんな、それぞれに何かを抱えているような、沈んだ表情をしていた。ああ、僕だけじゃないんだな、と少しだけ安心する。
屋上庭園は、療養所の中とは思えないほど、色彩豊かだった。色とりどりの花が咲き乱れ、蝶が舞っている。穏やかな風が、頬を撫でる。
「綺麗…」
思わず、声に出してしまった。本当に、綺麗だ。まるで、生きている世界みたいだ。
「そうでしょ? ショウにも、きっと何か感じるものがあると思ったんだ」
成香は、僕の隣に腰を下ろし、花を見つめた。僕も、彼女の隣に座る。しばらくの間、二人は無言で花を眺めていた。
「ねえ、ショウ。自分死んだ事、そろそろ受容してみたら?」
唐突な言葉に、僕は息を呑む。それは、僕がずっと避けてきたことだった。自分が死んだという事実を受け入れること。それを受け入れたら、一体どうなってしまうのか、想像もできなかった。
「…どういう、意味?」
「そのままの意味だよ。ショウは、ずっと過去に囚われている。死んだ時のこと、後悔していること、憎んでいること… そればかり考えている。でも、過去は変えられない。変えられるのは、これから先の未来だけだよ」
成香の言葉は、僕の胸に突き刺さった。確かに、僕は過去に囚われすぎていたのかもしれない。でも、過去を忘れることなんてできない。それは、僕の一部なのだから。
「でも… 忘れるなんて、できないよ。妻のことも、息子のことも…」
「忘れる必要はないんだよ。ただ、許すんだ。自分を、そして、周りの人を」
許す… そんなこと、できるのだろうか。妻の仕打ちを、自分の愚かさを、そして、許されることなどないであろう僕自身を…
その時、庭園の一角にある、一本の桜の木が目に入った。満開の桜が、風に揺れている。その姿は、まるで僕に語りかけているようだった。
(許せ… 自分を… そして、愛する人を…)
僕は、ゆっくりと目を閉じた。そして、深呼吸をした。心臓が、久しぶりに激しく鼓動する。
(そうか… 僕は…)
長い年月を経て、僕はようやく気づいた。んだのは、終わりの始まりではなかった。新たな始まりだったのだ。
ゆっくりと目を開けると、目の前に、桜の花びらが舞い散っていた。その花びらは、まるで僕を祝福しているようだった。
「ありがとう… 成香…」
僕は、心の底からそう思った。彼女のおかげで、僕はようやく一歩踏み出すことができた。
成香は、優しい笑顔で僕を見つめた。「どういたしまして。でも、本当の戦いは、これからだよ」
「…戦い?」
「うん。ショウは、これから死因を乗り越えなければならない。自分の過去と向き合い、それを乗り越えることで、初めて受容できるんだ」
僕は、覚悟を決めた。逃げてばかりいた過去と、今度こそ向き合おう。そして、乗り越えてみせる。
「わかった。僕… やってみるよ」
その日から、僕は少しずつ変わっていった。療養所のセラピーを受けたり、他の患者と話したり、積極的に行動するようになった。
そして、ついに、自分の死因と向き合う時が来た。それは、セラピストとのセッションの中で起こった。
「ショウさん、覚えていますか? あなたが、どうして亡くなったのか」
僕は、目を閉じた。あの日の光景が、鮮やかに蘇ってくる。
妻の罵声、灯油の匂い、燃え上がる炎… そして、息子への後悔。
(息子… ゴメンな…)
セラピストは、静かに僕の言葉を待った。僕は、震える声で話し始めた。
「…妻から… 長年… 虐待を受けていました… 言葉の暴力… それだけじゃなく… 時には… 体にも…」
「そして… 耐えきれなくなって… 息子を… 残したまま… 焼身… 自殺しました…」
涙が、頬を伝う。初めて、自分の過去を全て言葉にした。
セラピストは、優しく語りかけた。「辛かったですね。よく話してくれました」
「…息子に… 会いたい…」
心の奥底から、そう願った。生きていた頃は、息子の前で弱い姿を見せたくなかった。でも、今は違う。ただ、会って、謝りたい。そして、抱きしめたい。
「ショウさんの思いは、きっと届きますよ」
僕は、セラピストの言葉を信じた。そして、再び、希望を胸に生きていくことを決意した。
数年後、僕は療養所のリーダー的存在になっていた。他の患者を励ましたり、相談に乗ったり、生きる喜びを分かち合ったりする毎日だ。
ある日、僕は庭園で、不思議な感覚に襲われた。何かが、近づいてくるような、そんな予感がした。
空を見上げると、一筋の光が、僕に向かって降りてくる。その光は、まるで、僕を呼んでいるようだった。
光の中に、見覚えのある姿が見えた。それは… 大人になった息子だった。
息子は、悲しそうな顔で僕を見つめている。そして、何かを言おうとしている。
「父さん… 会いたかった…」
僕は、息子の姿に涙が止まらなかった。会いたかった。ずっと、会いたかった。
しかし、息子の次の言葉に、僕は愕然とした。
「父さんのところへ… 行くよ…」
息子は、自殺しようとしているのだ。僕と同じように、絶望の淵に立たされているのだ。
「ダメだ!! 死ぬな!!」
僕は、全力で叫んだ。自分の声が、どこまで届くのか、わからない。それでも、叫び続けた。
「生きろ!! 辛くても、苦しくても、生きろ!! 生きていれば、きっと、良いことがある!!」
僕の叫びは、現世にいる息子に届いたのだろうか。息子は、ハッとした表情で、立ち止まった。
そして、静かに涙を流し始めた。
その時、僕の魂は、光に包まれた。暖かい、優しい光だった。
僕は、息子に別れを告げ、光の中へ消えていった。もう、後悔はない。僕は、全てを受け入れた。そして、息子は、生きていくことを選んだ。
いつか、また会えるだろう。その時まで、息子よ… 生きて、強く生きてくれ…
(完)