八年越しの朝焼け

Drama 21 to 35 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

目が覚めると、見慣れない白い天井が広がっていた。いや、見慣れないというのは正確ではない。ここは死後の世界にある療養所の個室。僕はEPR97809、コードネーム・ショウと呼ばれる男だ。もっとも、そんな名前を覚えているのは僕くらいかもしれない。
「ああ、また朝か…」
そう呟いて、僕は重い体を起こした。窓の外はぼんやりと明るい。ここは死後の世界だが、時間という概念はあるらしい。空の色も、生きている世界とさほど変わらない。違うのは、生命の気配が希薄なことだけだ。
僕は転生を拒否した。生きることに絶望して、自ら命を絶った人間が、また同じ苦しみを味わう意味はないと思ったからだ。だから、こうして療養所で静かに過ごしている。
…もう、どれくらいの時間が経っただろうか。一年、いや、もっと長いかもしれない。ここでは時間の感覚が曖昧になる。
(コンコン)
控えめなノックの音が響く。「ショウさん、朝食ですよ」と、優しい声が聞こえる。僕は小さく「入って」と答えた。
ドアが開き、看護師の女性が入ってきた。彼女はいつもニコニコと笑顔で、僕に接してくれる。「おはようございます、ショウさん。今日はパンケーキですよ」
「…ありがとう」
僕はそう言いながら、彼女からトレーを受け取った。パンケーキの甘い香りが鼻腔をくすぐるが、食欲は湧かない。僕は死ぬ前に息子を残して焼身自殺をした。そんな僕が食事をする資格があるのだろうか。
看護師は僕の表情を見て、少し心配そうに眉をひそめた。「無理にとは言いませんが、少しは召し上がってくださいね。ショウさんの身体が心配なんです」
僕は黙って頷いた。彼女はしばらく僕の様子を見ていたが、何も言わずに部屋を出て行った。
僕はパンケーキを一口食べた。甘くて美味しい。でも、味がしない。心が死んでしまっているからだろうか。
僕はトレーを脇に置き、ベッドに横になった。窓から差し込む光が目に眩しい。僕はカーテンを閉め、暗闇の中に身を沈めた。この療養所に来てから、僕はほとんど部屋から出ることがなかった。誰とも話さず、ただひたすら眠っていた。
死んだら楽になると思っていた。でも、それは幻想だった。死後の世界には、死後の世界の苦しみがある。それは、死にたくても死ねないという残酷な事実だ。
そんな僕の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく存在が現れるまでは…。
(コンコン)
「…どちら様ですか」
あまりにも久しぶりに声を出したので、自分の声だと信じられないほどだった。
「あの、私、成香って言います。隣の部屋に引っ越してきたんです。少し、お話しませんか?」
成香…か。僕は記憶を辿る。隣の部屋はずっと空室だったはずだ。新しい住人が来たのか。
「…別に、話すことはありません」
僕は冷たく言い放った。他人に興味はない。特に、僕は死んでしまった人間だ。生きている人間と関わる資格はない。
「そうですか…。でも、もし気が向いたら、いつでも声をかけてくださいね。私はいつでもここにいますから」
彼女はそう言うと、静かにドアから離れていった。僕は再び暗闇の中に身を沈めた。
しかし、彼女の言葉は僕の心に小さなしこりのように残った。「私はいつでもここにいますから」か…。僕はしばらくその言葉を反芻していた。
それから数日が過ぎた。僕は相変わらず部屋に引きこもり、食事と睡眠を繰り返すだけの毎日を送っていた。しかし、時折、成香の声が聞こえてくる。彼女は他の入所者と楽しそうに話したり、歌を歌ったりしているようだった。その声は、僕の閉ざされた心に微かな光を灯すようだった。
ある日、僕はどうしてもパンケーキを飲み込むことができなかった。罪悪感が強すぎて、喉を通らないのだ。トレーを手に、僕は部屋を出た。廊下を歩いていると、成香とばったり出会った。
「あら、ショウさん。珍しいですね。どうしたんですか?」
成香はにっこりと微笑みかけてきた。その笑顔は、太陽のように眩しかった。
「…食べられなくて」
僕は小さな声で答えた。トレーを彼女に見せる。
成香は僕のトレーを見て、少し驚いたような表情をした。しかし、すぐに笑顔に戻り、「一緒に食べませんか?私も朝食はまだなんです」と言った。
僕は戸惑った。「…迷惑じゃないですか」
「全然。むしろ嬉しいです。一人で食べるより、誰かと一緒に食べた方が美味しいですから」
彼女の言葉に、僕は少し心が動いた。僕は首を縦に振った。
僕たちは療養所の食堂で一緒に朝食を食べることにした。成香は明るく話しかけてくれた。彼女は、僕が過去に何をしてきたのか、なぜここにいるのか、何も知らない。ただ、僕という存在を受け入れてくれているようだった。
「ショウさんは、どんな音楽が好きですか?」
「…音楽…ですか。特に、ないですね」
「そうですか。私はクラシックが好きなんです。特に、ドビュッシーの『月の光』が好きなんです。聴いていると心が安らぐんです」
僕は彼女の言葉をぼんやりと聞いていた。彼女は死後の世界にいるのに、希望を失っていない。僕はそれが不思議だった。
朝食の後、僕たちは庭を散歩した。庭には色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥がさえずっていた。まるで、生きている世界の楽園のようだった。
「ここは、本当に綺麗な場所ですね」
成香はそう言って、深呼吸をした。「私は、この場所が好きなんです。ここにいると、心が癒されるんです」
僕は何も言わずに彼女の横を歩いた。僕はまだ、心が癒されるという感覚が分からなかった。
「ショウさんは、どうしてここにいるんですか?」
突然、彼女がそう聞いてきた。僕は一瞬、言葉に詰まった。僕は自分の過去を語るべきなのだろうか。
「…僕は…」
僕は言葉を選びながら、自分の過去を話し始めた。息子のこと、絶望、そして焼身自殺。すべてを包み隠さず、彼女に話した。
成香は静かに僕の話を聞いていた。そして、僕が話し終えると、彼女は優しく微笑み、「辛かったですね」と言った。
僕は驚いた。彼女は僕を責めることも、軽蔑することもしなかった。ただ、僕の痛みを理解してくれたのだ。
「でも、もう大丈夫ですよ。ショウさんは、もう一人ではありません。私がいますから」
僕は彼女の言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。僕は生まれて初めて、誰かに必要とされたと感じたのだ。
それから、僕たちは毎日一緒に過ごした。彼女は僕に色々なことを教えてくれた。音楽、絵画、そして、生きることの喜びを。
僕は少しずつ、自分の殻を破り始めた。療養所の他の入所者と話すようになったり、庭に出て花を眺めたりするようになった。
僕は死んでから初めて、心が満たされる感覚を知った。成香のおかげで、僕は再び生きる意味を見つけ始めたのだ。
ある日、成香は僕に、自分の死因について話してくれた。彼女は、交通事故で亡くなったのだという。突然の出来事に、何もかも失ってしまったのだと。
「私は、死ぬまでずっと、後悔していました。もっと色々なことをしたかった、もっと色々な人と出会いたかったって。でも、死後の世界で、ショウさんと出会えた。それだけで、私は救われたんです」
僕は彼女の言葉を聞いて、胸が締め付けられるような思いがした。彼女もまた、僕と同じように苦しんでいたのだ。
「ありがとう、成香。君に出会えて、本当に良かった」
僕は心からそう思った。彼女は、僕の人生を、いや、死後の人生を、変えてくれたのだ。
それからしばらくして、僕は療養所を退所することになった。僕はもう、死んだこと受容することができたのだ。僕は転生することを決めた。今度は、自分の人生を精一杯生きようと思った。
「ショウさん、おめでとうございます」
退所の日、成香は涙を流しながら僕を抱きしめてくれた。「きっと、素敵な人生を送ってくださいね」
「ありがとう、成香。君のことは、絶対に忘れない。きっと、また会えるよ」
僕はそう言って、療養所を後にした。空は青く澄み渡り、希望に満ち溢れていた。
転生までの間、僕は成香と死後の世界の様々な場所を巡った。かつて息子と行った遊園地によく似た場所、二人で星を眺めた静かな丘、そして初めて出会った療養所の庭…。数えきれない思い出が、僕の心を暖かく包み込んでいた。
しかし、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。ある日、成香は突然、体調を崩してしまったのだ。療養所の医師によれば、死後の世界にも病という概念が存在し、稀に命を落とす(あるいは、消滅すると言うべきか)者もいるらしい。
僕は毎日、成香のベッドの傍らに付き添った。彼女は日に日に弱っていく。それでも、彼女はいつも笑顔を絶やさなかった。
「ショウさん、私のことは気にしないでくださいね。私は、十分幸せでしたから」
「そんなこと言わないで。君がいなくなったら、僕はどうすれば…」
「大丈夫。ショウさんは強い人だから。きっと、また誰かと出会って、幸せになることができますよ」
彼女はそう言うと、僕の手を握った。その手は、ひどく冷たかった。
そして、ある朝、成香は静かに息を引き取った。僕は彼女の亡骸を抱きしめ、声を上げて泣いた。僕は再び、孤独の中に突き落とされたのだ。
成香がいなくなった死後の世界は、色褪せて見えた。僕は再び、絶望の淵に立たされた。
それでも、僕は生きようと思った。成香が教えてくれた、生きる喜びを胸に、僕は転生の準備を始めた。
転生の当日。僕は最後の思い出の場所、初めて成香と会った療養所の庭に来ていた。ベンチに腰掛け、空を見上げる。
(お父さん…?)
突然、声が聞こえた。それは、聞き覚えのある、懐かしい声だった。息子だ。大人になった息子の声だった。
(お父さん、今行くからね。すぐにお父さんのところに行くから…)
息子の声は震えていた。彼は、を決意したのだ。
僕は必死に叫んだ。「ダメだ! 来ちゃダメだ! 死ぬな!」
僕の声は、どこまでも響き渡った。しかし、息子に届いているのかどうかは分からなかった。ただ、僕は必死に祈った。彼が生きることを、幸せになることを。
やがて、僕の意識は薄れていった。そして、僕は新たな世界へと旅立った。息子に、成香に、そして、過去の自分に別れを告げて。
新たな世界で、僕は再び赤ん坊として生まれた。今度は、自分の人生を精一杯生きよう。過去の過ちを繰り返さないように、そして、成香と出会えたことへの感謝を胸に、僕は生きていく。
そして、いつか、息子と、また会える日が来ることを信じて…